そして世界は踊る2

日々の呟きやらなにやら。

国の宝は何をもって宝たりえるのか

さて、昨日は本命?の国宝展へ。

展覧会はコロナ以来という母上と同道、

お土産にと近所の和菓子屋に寄ったら、

平日なのに行列でドキドキする…(間に合った)。

 

というか、平日…?っていう罠だったね。

(まあ弊社も有休取得奨励日にするくらいだし、

飛び石埋めて連休にする人も多いのかなと)

国宝展でも上野公園でもやはり人が多めで、

予約時間頃に行くと入場までちょい並びます。

や、すぐ入れるんですけどね。(実質5~10min)

そのおかげで無駄に職員のお姉さんに絡む

不届き野郎がいましたけどもそこはまあ。

 

それにしても、国宝とは何をもって国宝となるのか。

と、ふと考えたりしています。

国の宝なわけで、美術品・工芸品・書跡であっても

『稀少であること』『貴重であること』

『内容や成り立ちに歴史的価値があるかどうか』

ということろが重要なんですよね、きっと。

 

たとえば仏像は仏像であると云うだけで尊いけど、

それは信仰の対象だからであって、

資料として必要なのは制作年代、作者のほか、

背景(誰が依頼してどうして作られたか等)が重要、

なんだけど、やっぱり美は力だから信仰を集めるよね。

そのなかでも国宝になるというのは、

そういう「力」もあるものだからなのか…

でもきっと飛鳥時代の最古の菩薩像なら、

出来はともかくそれだけで稀少だよね、とかさ。

 

今回は、光琳風神雷神図屏風も出てますが、

これは国宝ではなく重文です。

宗達本が国宝で、光琳本はこれを写したもので、

さらに光琳本を写したのが抱一本になります。

光琳はかなり忠実に宗達本を写したらしいですが、

見た瞬間に違うのはわかる。当たり前ですが。

 

何が違うかというと、そもそも制作年代が違うし、

オリジナルが評価されるのは当たり前では?

(たらし込みの技法とかもあるし)

というのはあると思うんですが、

美術品としての好みでは光琳本が好き、

という人も居ると思うんですよね。

 

だから、美術品としての価値と文化財の格付けは

また違うはずなんだけど、無関係でもないような。

風神雷神はある意味、原本模本がはっきりしてるけど、

洛中洛外図屏風のほうはまた更に難問だね!?

(上杉本と舟木本のこと)

(これはそもそも描かれた元の洛中洛外が

時代によって変遷した事にも由来するだろうし)

とか、そんなことを考えたり。

 

そういえば、鑑賞中、三跡が思い出せず、

鑑賞中は別行動(いつも)な母上と合流してから、

小野道風空海橘逸勢だったっけ?と聞いたら、

「ちゃんと覚えてないよー、でも天皇じゃなかった?」

「あー、嵯峨天皇かも」と言ってたんですが、

そもそも三筆と三跡が混じっていたことが判明、

申し訳ないwww

 

そして今日は財布持っていたので、

ちゃんと図録も買えました!(当たり前だ)

ただ洛中洛外図屏風舟木本後期展示だったね?!

元々行く予定ではあったけど、あまりに人気で、

チケット取れるかしらね…来週4枠目販売だっけか。

がんばります…

(ふつうの展覧会は前期・後期で入替も、

今回は2ヶ月で4回入れ替えるという体制らしい。)