あまりにもむごい…というか残念な結末で、
これ以上は、とも思うんだけど、
特定の個人や作品のことだけではなくて、
そもそもの創作物への敬意や愛や、
作品世界を尊重することについて、
創作物を楽しみ、創作する者の端くれとして
ちょっと書いたものをまとめておきます。
あ、カラオケ行このネタバレ含むよ!!
作品のメディアミックスで望まれているのは、
原作に忠実であることであり、
原作をより面白くすることだけだと思ってる。
最近なら何食べ、カラオケ、金カムを見れば
わかるだろうし、実際それが一番成功するんだよ。
(ザファはちょっと物語が新規だったんで別…)
そもそもメディアミックスをするということは、
原作が面白くて支持されているから、
『売れる』って見込んだからでしょう。
される側も『売れる』→一人でも多くの人に、
作品が届く機会ができるからとOKするんだと思う。
私だって一人でも多くの方に読んでもらいたいしw
それは承認欲求だろうがなんだろうが、
自分が自信を持ってつくったものを
見せびらかしたくなるじゃんよ!!!
ただ媒体を変える場合は、
作者さん本人がやる場合であっても、
どうしても形や手法は変わる。
(ついこの間、イノタケ御大がやってたけど、
やっぱり大変そうでしたもんね!)
漫画の実写化は翻訳だというツイを見て、
なるほどね!と膝を打ったけど、まさにそれ。
たとえば映画カラオケの場合、映画版での改編は
映像化・実写化のために必要な改変で、
そして原作世界を深めるものだったと思う。
映画化にあたっては、
漫画では聡美くんのモノローグで語れる一人称部分を
どう補完するかがたぶんキモだと思ってて、
そこが大きくは合唱部と映画を観る部と思ってる。
もちろん、役者の演技でもおおいに補完してるけど、
物語としてどうやって2hの映画に収めるか。
そこで、和田君の改変は登場人物を分けただけでなく、
聡美くんや物語の展開さえも分配したというか。
成長に抗いたいというか、変わりたくないもどかしさを
和田君に残して、変声期に気付いて見守る役割
(映画を観る部の子とピアノ伴奏の先生)を切り離した。
青春は一時停止も巻き戻しも出来ないことは、
映画のエピを見てもらうとして(その改変も秀逸と思う)
少年たちの青さをナナメに見る女子たちも良い。
でも、それはあくまで原作の聡美君と狂児の関係性と
距離感がそのままだったからこそ、
青春の一種暴力的とも云える儚さと不可逆性を
そういうところで拾ってたと思う。
物語の根幹として、ここは絶対変えちゃいけない、
ってところが『正解』だった映画化だと思う。
それは映像ならでは、映画ならではの改変だからこそ、
原作を知らない映画ファンはもちろん、
原作ファンにも受け入れられてるんだと思う。
(ただ、映画や漫画にほとんど慣れていない人には
ちょっと厳しいかも知れない、と思っている。
まあ、そんなひとはこの作品選ばなさそうだけど…)
逆に、原作は漫画ならではの部分があって、
とにかく聡美くんのモノローグはすごい破壊力だし、
個人的には狂児が宇宙人(ヤク中)をボコったところ、
返り血を手のひらで受け止めるシーン、
コマ割りとそれぞれのキャラの表情、漫画の粋を見たね。
いずれにせよ、映画化だって二次創作じゃん!
原作から離れる部分があるにしても、
その作品の中で大事にしなきゃいけないところが
解釈違いになったら、もう別物じゃんか。
アマチュアの二次創作なら自分が回れ右でいいけど、
公共の電波とか出版物を使った作品であるなら、
というか、原作として拝借するなら、
その根幹になるものを間違えたらアウトなんだよ。
今回の件はそもそも、ちゃんと読んでる?だったんでは。
ミステリ〜はドラマ見てないけど、
(私は原作、全巻初版で持っているぞ…!)
原作読んでれば、整君の対人コミニュケーションには
なにか事情があってああなってるの分かるじゃん。
恋愛するにはものすごいパラダイムの転換が要るし、
彼にはもっと違う断絶があるはず、ってことが
尊重されてないから原作ファンが怒るんだよ。
宮部先生や京極先生は、別物だから好きにして、
とメディアミックスには一切関わらないそうだけど、
(撮影見に行ったり、プロモーションに協力はするけど、
内容に関わらない、という話だったと思う)
そのスタンスは作家さんによって違うし、違って良い。
結局、全ての関係者に、作品への愛と理解、
創造主への敬意があるかということじゃないかと思う。
そして、こんなことは二度と起こっちゃダメだ。
何が問題だったのか、どうしたら防げたか、
どこを返るべきなのか考えてほしい。
クリエイタを孤独に戦わせたらダメだし、
0から1をつくり出せる人を失うのは余りに辛い。
どうか少しでも創作が守られる世界であれと思う。
頼むよ、世界……!